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ヒトコトなつぶやき:
相撲の怖さ。
実は最近、なんとも悔しい思いをしている。
格闘技好きを自称し、それなりに経験も積んできたが「相撲」に偏見を持ちすぎていた。ウルフと呼ばれた千代の富士全盛期と、僕がプロレスにはまったきっかけであるタイガーマスクデビュー時期とが被っていたからかもしれない。
「相撲取りは強い」これだけは真実と理解していたが技術論に至らなかった。プロレス好きも格闘技好きも「興行」を主体として見るときに、どうしても拗らせていくポイントがあったこともある。
世間が若貴に沸いていた時期は新日本vsUWFインターナショナルが最高潮に盛り上がっていた時期でもあった。Uインターといえば高田であったが彼は蹴り技のイメージが強い。僕にとってはUWFの根源は「極め」であった。そして僕は佐山信者で前田信者。つまり「巨漢でも寝かせてしまえば」という拗らせがそこにあった。しかもこれも大きな間違いだった。
それからしばらくプロレス低迷期が続く。2003年、ボブ・サップvs曙があった。コンタクトスポーツのトップアスリートではあるものの「打撃のスペシャリスト」という訳ではないサップに曙がKO負けを喫した。ここでまた相撲から興味が離れてしまう。
振り返って1999年、なにごとにも「時代に対して早すぎる天才」であった佐山聡先生が「掣圏道」を確立した。市街地での肉弾戦を想定した格闘技で、PRIDEやUFCなどのMMAがテイクダウン→極めの技術に特化していくのに対し「スタンドからあらゆる技術で倒しつつ打撃で制圧する」ことの重要性を説いたが、ジャケット型の道着などでどうにも色物として見てしまっていた。
その後、PRIDEは崩壊。プロレスに徐々に活気が戻ってきた。PRIDEのTOPファイター達はUFCに場所を移して強さを見せていった。プロレスとMMAの接点も薄くなり、掣圏道は掣圏真陰流となり、より古流の技術や思想の復興を色濃くしていった。
色々拗らせている僕の中でこれらの3つは完全に独立していた。ところがやはり佐山聡という人は凄かった。何しろプロレスではキャッチ・アズ・キャッチ・キャンに執心し、ガス灯時代のプロレス技術を誰よりも研究した人間だ。
それにマーシャルアーツの打撃、空手の打撃、ムエタイの蹴りなどの打撃技術を研究し、UWFを創りシューティング(のちの修斗)を創り、掣圏道を創り、掣圏真陰流に到り、さらには古代相撲である「須麻比」に着地している(こちらは技術論より思想の方であるらしいが)。そしてそれらの様々な技術体系をもってして「最後のタイガーマスクを創る」と、さらにプロレスに繋げようとしている。もうちょっとあの方は無茶苦茶である(笑)。
さて、話を戻す。僕の相撲に対する偏見は江戸時代にまで遡る。つまりそれは強すぎた力士達への「禁じ手」の存在だった。おとぎ話染みた都市伝説混じりではあるが、有名なところでは最強の力士・雷電爲右エ門の禁じ手だろう。彼は「鉄砲(突っ張り)・張り手」の打撃、「閂・鯖折り」の立ち関節を禁じられたとされている。
つまり強すぎて話にならないから個人に禁じ手を適用したというわけである。強すぎて話にならないというのは、つまり相撲の「興行」としての側面を如実に表している。「禁じ手にしなければ星が確定してしまうし重大な怪我人が出る」ということだ。神事だなんだと云っても「興行」であるわけだ。力士を囲っていた武家などの面子もあっただろうが、ぶっちゃけた話が賭博の対象になっていたというわけである(これは僕個人の考えです)。
近年の角界には、そもそもの技としての禁じ手はあるものの、それ以外はない(旭道山の張り手は……自主規制という名の禁じ手扱いだったとは思うが)。無手、まわし以外仕込みのない身体、重心の奪い合い、関節の取り合いと、歴史に裏打ちされた術理と理合い。そして倒れる・土俵を割る=負け=即ち死という概念。
興行でありつつ神事でもある相撲を「格闘技」として認識していなかった自分はあまりにも愚かだった。「玄人好みの上手い力士」には注目していたが、押し相撲や同体落ちするような相撲に格闘性を見いだせなかったこともある。「力士」という特殊訓練を受けて育てられた存在の、フィジカルと重さによる「倒し合い」だとばかり思っていた。
そもそも立ち技の喧嘩でならば拳で人を殴る必要性はない。小さい物を動く物に正確に当てるということには相当の技術が必要となるからだ。「拳を痛めるから掌底で打て」などという以前の問題だ。路上の現実では多くの体験者達が物語るように「頭突き一発」というのが正しい。
作家・椎名誠氏の喧嘩遍歴によれば(若干眉唾ではあるが)、朝鮮学校の学生と地元の高校生の間では喧嘩が絶えず、殴り合いになると相手方の頭突きがなによりもきいた、とある。ここから「朝鮮パンチ」略して「チョーパン」と頭突きによる顔面攻撃を呼称することになったとかならないとか。
実際問題として、頭部は人体の中で最も重い部位の一つだ(頭部は体重の10%で換算される体重60キロなら6キロ)。そして重大な器官である脳を保護する面からも頭蓋骨は極めて頑丈に作られている。しかも動作に連動する関節数は非常に多く、構造上最上部にあることからも、後足の踏みだし+前足の踏み込みに脊椎を連動させて上体をしならせて前頭部を相手の顔面に打ち込むと、これは凶悪な打撃になる。
しかも拳などより遥かに大きい為「当てやすい」。襟首でも奥襟でもとって固定するもよし、ノーモーションで打ち込むもよし、非常に危険で強力な打撃なのだ。使うのは眉上から生え際の前頭部。狙うのは相手の鼻近辺である。稀に相手の歯に当たって額から流血することになるので、注意が必要だ。
話を戻す。相撲のなによりも恐ろしいことに「ぶちかまし」や「かち上げ」がルール上全く問題無く認められているということだ。それどころか両者諸手を土俵についた瞬間からの「立ち合い」で多様されるのだから尚更だ。重心を低くして、短距離走のクラウチングスタートの様に下から正面または斜め上に身体ごとの頭突きをかますのだ。
僕はこの恐ろしさにこの歳になって気づき、愕然としている。「相撲」は国技であるが故に「隔離」されている。神事であるからなどの理由で「保護」されているわけではない。「隔離」されているのだ。こんな恐ろしい格闘技は他にはない。関節を極めたまま投げる技の多いことも恐怖そのものだ。重心を崩したり重心を制したりするのは相当のテクニシャンになってから。頭からぶつかり合う「ガチンコ」が若手には奨励され、突っ張りと張り手でヘビー級以上の体格の人間が顔面を張り合う。そこからようやく関節を極めたまま体重を使って投げ倒すなどにもっていく他の投げ技も大半が「極めたまま投げる/倒す」という技だ。怪我をするのが当たり前というような狂人の沙汰である。
立ち合いは行事がいてこそ、同時に始まるいわゆる「ヨーイドン」だ。「変化」には距離をとったりすかしたりすることはあっても、基本はどれだけ打たれようが極められようが前に進むことのみしか許されていないという狂気染みた格闘技。それが相撲なのだと最近再認識させられている。とんでもない世界だ。
漠然と「相撲は年寄りのみるもの」というイメージがあった「そのくらいの歳になれば相撲も楽しめる」というようなイメージも。僕がその歳になったからかはわからないが、自分の持つ格闘技の術理や理合いと相撲の術理や理合いを重ね合わせると、相撲がとんでもない制圧術であることを感じている。本当に凄まじいのだ。
プロレスや総合格闘技はそこそこ見てきた方だと思うが、綱を張るまで到る必要性はまったくなく、フィジカルと技術が最も成熟した力士が他の格闘技に出たケースはないこと。そして相撲の術理や理合いをフルに発揮させていいとされた試合もないことにも今更気づいている。恐ろしい話だわ。
こんな駄文の結びに、もう一度云う。「相撲は隔離されている」。
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| [2017
年
05
月
10
日-
03
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12
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